国と国が地続きのヨーロッパなどと比べて、島国の日本では、日ごろ、
「国境」を意識することが少ない。2017年夏から「日本の国境に
行こう!!」キャンペーンが展開され、旅の一つの形になりそうだ。
その背景は、4月に施行された「有人国境離島法」という法律だ。全国
8都府県の71島が、特定有人国境離島地域に指定され、国と関係自治
体が“島の振興”に取り組んでいる。11月6日から9日まで、FDA
(フジドリームエアラインズ)のチャーター機で、アイランドホッピング
ツアーが実施された。駆け足だったが、対馬、種子島、福江島(五島列島)
を巡った。国境は、国と国を隔てる壁ではなく、「出会いの場」であって
ほしいと強く感じた。
◇
対馬は、佐渡島、奄美大島に次いで、全国で3番目に大きい島(沖縄本島などを
除く)だ。2004(平成16)年に6町が合併し、今は、全島が対馬市。韓国・釜山ま
では海上直線で49・5キロ、博多までの航路は132キロで、まさに国境の島だ。島
の最北端、韓国展望所からは、天候に恵まれると釜山が見える。対馬市の人口
は、ピーク時の約半分、3万2000人で、江戸時代とほぼ同じだという。そこへ、韓
国人観光客が年間27万人上陸する。対馬の人たちも、最も近い外国旅行として、
釜山はなじみの土地だ。
歴史的に「外交の島」といわれる。13世紀の蒙古襲来「元寇」、豊臣秀
吉の朝鮮出兵、明治時代の日露戦争の日本海海戦は、国際的には対馬海戦と
いわれている。
朝鮮との交易で栄えた対馬は、秀吉の“暴挙”に苦しんだ。秀吉の死後、
徳川家康は、対馬を治めていた宋(そう)氏に、朝鮮との関係修復を命じ
た。朝鮮の要求は、出兵して貴族の墓を荒らした犯人の引き渡し、それに謝
罪の国書だった。宋氏は困り果てたが、ある無関係の罪人を差し出し、国書
は偽造、というカケに出た。国交は回復するが、この一件は明るみに出る。
しかし、徳川幕府は宋氏を断絶せず、長く朝鮮との窓口役を担わせた。
江戸時代、朝鮮通信使は12回、来日しているが、対馬は重要な通過場所
になったことは言うまでもない。今年、朝鮮通信使がユネスコの「世界記憶
遺産」になったことは、対馬にとって朗報だ。
さて、日本海海戦で日本が勝利した翌日、143人のロシア兵が島に漂着
した。島民は、恐る恐る、水や食べ物、寝床を与えて助けた。2005年に
は、島内の「日ロ友好の丘」に記念碑が立った。
歴史物語ばかりでなく、対馬には観光スポットも多い。万松院の宋家の墓
所には、歴代当主や奥方の墓が並び、日本三大墓地の一つに数えられる。海
上に鳥居がある和多都美(わたつみ)神社は、「海彦山彦」の神話を秘め
る。烏帽子岳から展望する多島海の絶景はいつまでも印象に残る。対馬は
「暮らすように旅する」国境の島だろう。
(写真は上から、対馬空港での歓迎、韓国展望所、和多都美神社の鳥居、宋
家の広大な墓地)
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