都会生活者は何故か田舎の風景に想いを馳せ、地方生活者は都会の喧騒に癒しを感じるという。例えば歴史上の人物に好感を持つとき、それは己とは真反対の性格に共感を覚えるものである。人は同類を好まずということか。それはさておき、手っ取り早く癒しを体感できる術は「旅」ではないだろうか。
旅の行先を選択するのはその時の心の状態で決まるものであるが、私の場合、今日まで生きてきた周辺環境に関係なく、求める旅はいつも信州であるのが不思議でならない。数日の休みが取れるとつい、信濃路への思いが湧き上がってくる。自分の生い立ちを振り返ってみても信州に対する懐かしさの源になるべき出来事は一切ないのである。住んだこともなく、父母に至っては全く無縁の土地であるのに、妙に懐かしさを感じる不思議な場所である。
名神、東名を経て、恵那峡を散策し、中津川から木曽路、馬籠宿で島崎藤村を回顧し、諏訪大社を訪れ、宮司の諏訪大社の成り立ちを拝聴し、しばし感動を頂く。諏訪よりビーナスラインを走り夕方近くに白樺湖畔を抜けた蓼科高原の宿泊地に向かう。温泉に浸り、旨い地酒と朴葉味噌で高原の夜を一人で過ごす贅沢を感じながら1日を終えた。
翌日、蓼科ピラタスロープウェイで山頂の溶岩庭園を探索、白樺湖から車山高原に車を走らせ、ここから見る雄大な北アルプス、八ヶ岳を目の当りにすると、この瞬間が私の最高のビタミン剤であると強く感じるのである。脱サラで起業した時、挫折した日もこの風景の中で出直しの決断をした。私にとってこの場所は、父であり母であり師匠でもあるここ信州は心の道標と言える。 (会員 吉武英行)
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